【オフィシャル】人形町今半

すき焼きの歴史

2021年10月20日

日本人と肉食

日本では6世紀の仏教公伝以来、政治と仏教と稲作が結びつき、公には肉食が禁じられました。
しかしそれ以前には政治的な意思決定のための祭祀などで牛を贄とし、その肉を食べることが古墳時代から続いていました。その伝統は途切れることなく、江戸時代には高価な滋養の「薬」としての肉食が記録され、庶民の食には絶えることなく肉食が存在しておりました。
(参考文献:原田 信男『歴史のなかの米と肉」平凡社2005年』)

すき焼きの誕生

さらに江戸時代末期になると、関西地方で「魚(うお)すき」という料理が現れます。これは浅めの鍋で魚介類などを醤油タレで調理したもので、最初は魚の煮付けに近い形のものであったとされています。
語源としては薄切りにした食材を指す「剥き身(すきみ)」、風流で洒落たものを指す「数寄」などが考えられます。また、農作業中の料理として鋤(すき)を鍋代わりに味噌や醤油で肉を調理する「鋤焼き」という調理方法が存在したことも文献に残っています。
これらが合わさり、牛の剥き身(すきみ)を味醂や醤油で調理した「すき焼き」が関西で誕生しました。


関西のすき焼き

京都は牛すき焼きの発祥の地であり、日本一の牛肉文化を持つとも言われています。
京都から始まった「関西風」すき焼きは、牛脂をなじませた鉄鍋で牛肉を焼き、砂糖や醤油などで調理することで肉の脂味を強く感じられる手法です。肉と野菜を交互に調理することで常に変化する鍋の状態を昆布出汁、水などで調整し、最後まで仕上げる面白さがあります。

肉食の奨励

一方同時代の関東では、慶応3(1867)年に「牛鍋」屋が東京で開業。同年、今里町(現在の白金台)に政府公認の食肉処理場が誕生しました。
次いで明治5(1872)年1月24日、明治天皇が牛肉を宮中で食したことを公表、肉食解禁を宣言しました。この背景には、列強諸国との晩餐会に牛肉を使用したいという外交的事情と、富国強兵政策のために国民に上質なタンパク質を摂取させる必要があるという政治的事情がありました。

牛鍋の流行と今半

これを境に関東では続々と牛鍋屋が開業、最盛期には都下に550軒以上の牛鍋屋がしのぎを削っていました。この軒数と人口の比率を現在の東京都で換算すると実に8900軒以上、コンビニより多く街で見かける、と言えばその繁盛ぶりが想像できるでしょうか。
そんな時代のなか今半は誕生、最初は小さな牛鍋屋からスタートします。
当時の東京で流通していた牛肉は未発達な処理技術のせいで臭味が強く、それを使う牛鍋は味噌や醤油で強い味付けと匂い消しをしたものが大多数だったようです。
しかし政府公認の食肉処理場を皮切りにより高度な処理技術と衛生管理が発達、安全で上質な牛肉を供給できるようになりました。

牛鍋から「関東風のすき焼き」へ

基本的に江戸前料理は関西の料理を簡略化して無駄をはじいたものが多く、それを江戸のお点前料理、江戸前と言われていました。牛肉の質の向上と共に、関西から剥き身を使ったすき焼きが伝わり、「関東風」のすき焼きが完成していきます。関西風では鍋で調味料を合わせ味を調えますが、気が短い江戸っ子はそれが面倒で、最初にたれを作れば簡単じゃないかとのことですき焼きの割り下が完成していきます。江戸っ子は、柔らかくって、ふわふわっとして、甘いものが好きでしたから、割り下の砂糖と醤油だけではものたりなくて、みりんが入り今の割り下となったと言われております。
この「割り下」を使うかどうかが関東風と関西風の分かれ目になるといえます。「関東風」のすき焼きは、割り下を使うため汁気も比較的多い傾向にあり、鍋の味が一定になりやすいため、大人数で鍋を囲んで思い思いに箸を伸ばすことのできる大らかさがあります。
今半は牛鍋の質を磨き上げていくなかで、関西のすき焼きの技法と関東の割下を融合させ、「今半のすき焼」を完成させていきます。